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譬如水怙牛過窓櫺 頭角四蹄都過了 因甚麼尾巴過不得

「公理系」とはどういう考え方か。ゲーデルの不完全性定理の誤用例

はじめに

こういうの、ツイッターとかでかるく揶揄されるだけで終わっちゃうのもったいない。

この記事、現時点では「公理」でグーグル検索して上から四番目に来てる。

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「『公理』ってなに?」って思った人がよりよい情報にアクセスしやすくなるよう、記録に残しておきたい。

そう思って僭越ながらぼくが筆を取る。(ゲーデル不完全性定理とかまったく理解してないけどな)

公理と定義と定理の違い

公理とか定義とか定理という言葉は、知ってる人からは知ってて当然、という扱いをされてしまうのでちゃんと説明される機会が少ない。

そういった「知ってて当然」扱いをされてしまうことがらをきちんと説明してくれる資料があった。

現代数学の基礎知識 (pdf)

(この資料、ギリシア文字や筆記体、ボールド体の書き方から始まるのがすばらしいと思う。「この X の2乗の X ってどっからきてんの?」って聞かれてみてみたらカイ二乗だったこととかあるし、数学やる人いっかいギリシア文字全部書いてみたほうがいいですよ。ρ と p とか意外と似てるから気をつけろ)

これを読んでいただければオッケーなんだが、一応ぼくもぼくなりに解説をしておこう。

公理、定義、定理はいずれも命題(proposition)である。

命題というのは「 A は B である。」とか「もし P ならば Q である。」とか「y=f(x)」とかっていう形をとる。

命題というのは真(true)か偽(false)か、どっちかに決めることができる文のことだ。

「灰色は黒とも言えるし、白とも言えるし、まあ人それぞれですね」という文は命題ではない。

「カラスは黒い」は命題だ。

「カラスは白い」も命題だ。ただしこの命題はまちがってるので偽である。

定義(definition)における「 A は B である。」というのは、「これから B という言葉を A という意味で使いますよ」という宣言なので、証明の必要なく真だ。

「犬または猫をイヌネコとよぶ」と宣言したらそれが定義だ。定義は単なる約束ごとにすぎないので証明の必要がない。

定理(theorem)というのは命題の中で正しいこと(真であること)が証明されたもののことだ。

「カラスは黒い」「黒いものは怖い」という命題が正しいとして、よって「カラスは怖い」という文が導かれたら、それが定理だ。

(でも本当は証明された命題を定理と呼ぶかどうかは文化による。
ふつうは正しいことが証明された命題のなかで、特に重要なもののことを定理と呼ぶ。
ある定理から簡単に導かれる定理は(corollary)、ある重要な定理を示したいがために証明しておく足場みたいな補助定理のことを補題(lemma)と呼んだりして区別する。)

数学はこのように
「こう定義します」→「するとこの定理が導かれます」→「またこう定義します」→「するとこの定理が導かれます」→……
という具合に議論をすすめていく。

ここで、ある疑問が生じる。

全部の言葉を定義することはできないよね? だって一番最初に出てきた定義に出てくる言葉はどうやって定義するの?

はい。数学の世界で一番最初に出てくる言葉には、実は定義がないのだ。

公理(axiom)っていうのはパズドラとかポケモンで最初に与えられるモンスターみたいなものだ。

数学はまず公理という仮定を置き、それをスタート地点にして次々と定理を証明していく学問なのだ。

ユークリッド幾何学という数学のサブジャンルがある。中学校でならう図形の話がユークリッド幾何だ。

これはたとえば以下のような命題を仮定している。

「相異なる任意の2点に対しそれらを通る直線を引くことができる。かつその直線は唯一つしかない。」

これは定理のように見えて、定理ではない。証明なしにポンと置かれた仮定だ。

そして「点」とか「直線」とか「通る」という言葉には定義がない。

野崎昭弘は、「点」という代わりに「ピン」といい、「線」の代わりに「ポン」といい、「通る」という代わりに「パンする」と言い換えることもできる、と述べた。

単語自体に定義がなくても、言葉と言葉の関係が保たれていれば、数学をつくることができる。

不完全性定理―数学的体系のあゆみ (ちくま学芸文庫)

不完全性定理―数学的体系のあゆみ (ちくま学芸文庫)

中学校で定規とコンパスを使って作図をさせるのは、(目盛りのない)定規とコンパスが「公理」だからだ。

定規で線を引く行為は「相異なる任意の2点に対しそれらを通る直線を引くことができる。かつその直線は唯一つしかない。」という公理に他ならない。

だからぼくは中学の図形の授業はわかりにくいと思っている。ぼくは中学生のとき図形の問題ぜんぜんできなかった。

中学の図形の授業は定規とコンパスという公理から出発して、三角形についての定理をつくり、それを使っていろんな図形を三角形に分割して問題を解く。

公理系みたいな考え方(形式主義 (数学) - Wikipedia)と、図形に関する知識をごっちゃに教わるので、(しかも中学校の先生の多くはそのことを自覚してなかったりするので)、混乱を招くし落ちこぼれが出てくるのもむべなるかなと思う。

『哲学的な何か、あと科学とか』間違い探し編

では冒頭のサイトを見てみよう。

公理が自明とは言っても、あくまでも、証明はされていないのだ。
したがって、幾何学は、
証明されていない法則を土台として成り立っているということになる。
だから、もし、本当に、万が一にでも、公理に間違いがあったとすれば、
公理から導き出された定理もすべて間違っているということになり、
歴史ある幾何学体系は一瞬にして崩壊してしまう。

公理 - 哲学的な何か、あと科学とか

公理に証明が必要であるかのような書き方はミスリーディングでしょう。

上述の通り、公理は証明の出発点だ。

(ただし公理どうしに矛盾があったら、その公理系は破綻する。

例えば、

  • 「相異なる任意の2点に対しそれらを通る直線を引くことができる。かつその直線は唯一つしかない。」
  • 「相異なる任意の2点に対しそれらを通る直線を引くことができる。かつその直線は無数に存在する。」

という公理を置いたら破綻している。)

とはいえ、もちろん多くの人は、
「こんなにシンプルで美しく、
何より、客観的な世界を正確に記述できている幾何学
 誤りがあるはずはない」
と考えていたし、
「おそらく、幾何学の公理を勝手に別のものに変えてしまえば、
 理論体系として矛盾が生じるはずだ。
 だから、幾何学が理論体系として矛盾がないためには、
 必然的に今の公理しかありえないのだ」
と考えて、ユークリッド幾何学の公理は絶対的に正しいとされてきた。

しかし、1830年頃、数学の天才ガウスが、この問題に挑んだ結果、
なんと、5番目の「平行線の公理」を「平行線も交わる」という公理に置き換えても、
幾何学として矛盾が発生せず、それどころかまったく新しい幾何学体系が
作られることを発見してしまった。

公理 - 哲学的な何か、あと科学とか

ガウスユークリッド幾何学の「平行線の公理」に挑んだのは、ユークリッド幾何学の公理が絶対的に正しいと思っていたからではありません。

ユークリッドの公理系の中で「平行線の公理」が、長ったらしくてきれいじゃなかったからです。

平行線の公理というのは「ある直線が他の2直線に交わり、その一つの側の内角の和が2直角(180°)より小さいとき, それらの2直線をその側に延長するといつかは交わる。」というもの。

まどろっこしいでしょ。

ガウスは「この公理とっちゃっても、他の公理からこれ証明できんじゃねえかな」と考えて平行線の公理を置き換えた幾何学を考えてみたのだ。

このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、
 無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ。

この事件以降、あらゆる学問の理論体系は「絶対的な真理の記述」ではなくなり、
「ある一定の公理)をもとに、論理的思考の蓄積で作られた構造物」
とみなされるようになっていった。

公理 - 哲学的な何か、あと科学とか

確かに好き勝手に公理を決めても理論体系は作れますが、そのことは学問の体系を揺るがしてはいません。

さきほど、「点」という代わりに「ピン」といい、「線」の代わりに「ポン」といい、「通る」という代わりに「パンする」と言い換えることもできる、と述べた。

しかし、現実的なニーズや直感的な理解を無視して、わざわざピンポンパン幾何学を研究する必要はないわけで、公理系が自由に組み立てられるようになったことは、ユークリッド幾何学の知見を脅かすものではありません。

そして、それから100年後、ゲーデル不完全性定理として、

「我々が、どんなに公理を選択して、無矛盾にみえる理論体系を構築しようとも、
 その理論体系の無矛盾を 自分の理論体系の中で証明することは不可能であるため、
 選んだ公理が本当に正しいのか証明することは、絶対にできません」

と述べることによって、理論体系は完全にトドメをさされる。

公理 - 哲学的な何か、あと科学とか

さされません。

「選んだ公理が本当に正しいのか証明することは、絶対にできません」という主張はあまりにあいまいなものです。

「公理が本当に正しい」ってどういうことかわからない。

第2不完全性定理
自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

ゲーデルの不完全性定理 - Wikipedia

この定理は例えば、こんなふうに使うことができる。

公理系によって組み立てられた形式的体系 X と形式的体系 Y が別の体系かどうか考えるのは正攻法で調べるのは難しい。

でも第2不完全性定理の対偶をとったら、
「X によって Y の無矛盾性を証明できたならば、その X は自分自身 Y ではない。」
と考えることができる。

これによって新たな形式的体系を作れたかどうか判断できる。

ゲーデル不完全性定理は数学にポジティブな影響を与えるものです。

数学全体の理論体系にトドメをさすようなものにはなりません。

数学ガール ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)

数学ガール ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)

(結城先生の数学ガールは萌えキャラ使ってたとえ話で数学解説するような本ではありません。例えば定義がいっこ出てきたときに登場人物が「そもそもこの定義ってなんでこんな定義になってるの」っていちいち悩むんです。本の読み方自体を教えてくれる本なので次元が一個上。おすすめです。ただし10章はけっこうハード。ぼくもちゃんとは読めてない。)

追記

仰るとおりです。ご指摘ありがとうございます。

この文章は公理の話と無定義語の話がごっちゃに登場します。話の運びをうまく処理できなくって雰囲気で流してしまいました。

無定義語 - 現代数学入門

みなさまご注意ください。

追記2

数学ガールのテトラちゃんはゲーデルの証明を「プログラムみたい」(p.343)といっているけど、チャイティンによれば不完全性定理の証明はLISPで書かれているそうです。

ゲーデルの原稿にプログラミング言語をはっきりと見て取ることができます。もっとも近いプログラミング言語は、私の知る限りでは、LISP、純粋LISP、副作用のなくて十分面白いLISPLISPの核心です。」(グレゴリー・J・チャイティン『セクシーな数学』訳:黒川利明)

リスパーのみなさまは、ゲーデル不完全性定理の証明、理解できるかもしれません。チャレンジしてみてはいかがでしょう。

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで