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譬如水怙牛過窓櫺 頭角四蹄都過了 因甚麼尾巴過不得

もし山形浩生のCUT連載が続いていて、大島弓子『バナナブレッドのプディング』評を書いていたら

漫画 書評

山形浩生の書評はおもしろい

山形浩生は日本の評論家、翻訳者。

山形浩生 - Wikipedia

かれの書く書評はおもしろい。

書評ってあらすじを紹介して、感想を述べる、みたいなのが多いんだけど、山形の評論はそれとは違う。

彼は本のあらすじだけでなく、世界観まで踏み込んで読み取る。

「世界観」という言葉は、単に「雰囲気」とか「状況設定」みたいな意味でも使われるが、ここでいう「世界観」は、大げさに言えば天動説と地動説みたいな、世界の見方自体を指す狭義の「世界観」だ。

だから山形浩生の書評は、たまに評される側の本よりもおもしろくなっちゃったりする。

ちなみに、山形浩生は旧友、柳下毅一郎の『新世紀読書大全』をさして、「うらやましいな、柳下はこんな本を作ってもらえて。まあぼくの書評はあまり需要がないから仕方ないんだが。」と語っていてちょっとかわいい。
柳下『新世紀読書大全』:うらやましいなあ。 - 山形浩生 の「経済のトリセツ」

新世紀読書大全 書評1990-2010

新世紀読書大全 書評1990-2010

これは山形書評に需要がないというよりも、彼が意外と編集者に恵まれてないせいだと思う。

山形書評をうまく集めれば、『J・G・バラード千年王国ユーザーズガイド』みたいな、かっこいい本ができると思う。

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド

J・G・バラードの千年王国ユーザーズガイド

そして山形浩生が映画雑誌CUTに連載していた書評のうち、

の2つは有数の名文だと思う。

書評も、評される側の本もおもしろい。

日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)

日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)

リバーズ・エッジ (Wonderland comics)

リバーズ・エッジ (Wonderland comics)

この2つはどちらも少女漫画について書かれた文で、

何度これを繰り返し読んだかしれない。この先も、何度となく読み返すだろう。大島弓子の『バナナブレッドのプディング』とともに。ちなみに『バナナブレッド』は、ぼくにとっていまだにわからないまんがである。

CUT 1994.04 Book Review

たとえば大島弓子があっさり愛を描けるようには、岡崎京子は愛を描け(か)ない。登場人物のだれ一人として、愛にたどりつきはしない。ストレートに「これが愛!」と描くことで、大島弓子のマンガはいつもファンタジーっぽい非現実性を持っちゃうけれど(それでも/それゆえに彼女のマンガはすてきなのだけれど)

CUT 1996.02 Book Review

と、ちらっと大島弓子への言及がある。

しかし、残念ながら大島弓子の『バナナブレッドのプディング』評は書かれることがないまま連載が終わってしまった。

そこで、もし山形浩生のCUT連載が続いていて、大島弓子『バナナブレッドのプディング』の書評をしていたら、どんな文になっていたか、自分で想像して勝手に書いてみた。

大島弓子『バナナブレッドのプディング』:ぼくもいつかはもつれ合うアリアドネの糸をたぐり寄せることができるだろうか。

わからない。ぼくにとって大島弓子の『バナナブレッドのプディング』はいまだに(ひょっとしたら永久に)わからない漫画なのだ。

そもそもぼくがいまこのCUTなんかに自画自賛めいた駄文を書き連ねているのは、もともと「ゴルゴ13」とかのマンガが好きだったせいだ。

で、近所の古本屋に置いてあるマンガをかたっぱしから立ち読みしていて、でもそのうち少年マンガはひと通り読んじゃったから少女マンガにも手を出して、それも読んじゃってマンガ評論本にも手を出して、橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』なんかの影響を受けていまに至る。

そんなぼくの少女マンガ原体験のひとつであり、いまだにわからないマンガが大島弓子の『バナナブレッドのプディング』だ。

『バナナブレッドのプディング』に描かれるのは最初っから最後までまぎれもなく愛だ。

ああ、日本語で愛なんていうとずいぶん安っぽくなる。こんな言葉を素面で口にだしていうのは三文芝居の世界だけだ。

ぼくの友達のメリケンどもはずいぶんあっさり気楽に "I love you" なんていうもんだから、それをちょっとうらやましいと思ったりもする。

でもそうなんだ。大島弓子が描いてるのは愛だ。

混乱にみちた主人公の衣良も、その混乱を救おうとする友達のさえ子や兄キたちも、持ってるものは愛でしかない。

村上龍は『十三歳のハローワーク』で小説(ブンガクと言ってもいい)の役割は、社会が近代化するにあたって生じる局所的な軋轢を拾いあげて問題化することだった、と述べている。これは偏狭っちゃあ偏狭な小説観で、ナボーコフだったらすぐさま否定するだろう。

だけどこれはなかなかするどい指摘だ。

本当に大昔、ブンガクやら科学やらは今みたいにわかれてなくってみんな神話だった。神話は古代人が自然やら人間やらを観察し、その法則性をなんとか記述しようとしたものだ。

そいて、科学やテクノロジーが発達し、近代化もほぼ完成した時代にマンガや小説みたいな作り話をわざわざぼくらが読む意義ってなんだろう。

いま残っている作り話の価値、それは人間関係が必然的にたどってしまうプロセスの構図を描き出すことだ。そのプロセスを抽出してくる作業は、いまだにマンガや小説みたいなフィクションでしかできないことだ。

当事者たちそれぞれの思惑が、その総和としてたどった結末が当事者たちそれぞれの思惑とはちがった結末に達する。その構図は悲劇であり抜け出すべきなにかなのだ。

大島弓子をこの悲劇からの脱出をあっさりやってみせる。

主人公の衣良の混乱とそれを救い上げようとするさえ子、巻き込まれる人物はみんな愛しかもっていないのに、彼らはそこでまた新たな混乱を生み出し人間関係は複雑にもつれ合う。

「だれかもつれた糸をキュッと引き奇妙でかみあわない人物たちをすべらかで自然な位置にたたせてはくれぬものだろうか」と、ある登場人物はいう。

その混乱の果てに、衣良はナイフを持って走り人を刺し殺しそうにすらなる。

こんなお花畑の世界(文字通りページのまわりはたっぷりの花束で彩られる)のなかで展開される物語のなかですら、そんな悲劇が生まれるのなら、一体ぼくらはどうしたらいいんだろう。

でもこのもつれた糸は、単なる性欲や恋愛感情なんかとは次元のことなる愛の力によって収束し、すべての人物が収まるべきところに収まる。

最後に衣良はこれから生まれてこようとする赤ちゃんに、男に生まれたほうが生きやすいか、女に生まれたほうが生きやすいかと聞かれ「男でも女でも、どっちも同じように生きやすいということはない」と答える。でもその直後に、「まあ生まれてきてごらんなさい」と、「最高に素晴らしいことが待ってるから」と自信たっぷりに断言する。

本当にそうなんだろうか。ぼくもいつかその最高に素晴らしいことに出会えるのだろうか。大島弓子の描き出した愛の世界に到達できるのだろうか。

いまだにぼくは信じられないけど、それでもこの言葉を信じて生きている。

大島弓子選集 (第7巻) バナナブレッドのプディング

大島弓子選集 (第7巻) バナナブレッドのプディング