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廿TT

譬如水怙牛過窓櫺 頭角四蹄都過了 因甚麼尾巴過不得

土着信仰、民話、伝承風の都市伝説についての一考察

妖怪

ネット怪談の土着的意匠

京極夏彦は『妖怪馬鹿』で「心霊主義(spiritualism; スピリチュアリズム)の影響で解釈から妖怪がぶっこ抜かれた」というようなことを語っていました。

妖怪馬鹿―化け物を語り尽せり京の夜 (新潮OH!文庫)

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完全復刻・妖怪馬鹿 (新潮文庫)

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例えば、いま山で雪女に出会ったとしても、それが雪女だと認識する人は少ないだろう、「雪山で死んだ女の霊」だと認識されるだろう、と。

これは妖怪の実在、幽霊の存在を信じる信じないとは別の話です。

雪山で奇妙な体験をした(またはそういう話を聞いた)ときに、「雪山で死んだ女の霊」という解釈と「雪女」という解釈、どっちのほうがすんなりわかりやすいか、という共通認識というか、コードというか、そういう話です。

で、実際さいきん解釈から妖怪がぶっこ抜かれたかというと、そうでもないとぼくは思っています。

ネット上で人気のある怖い話には、八尺様、ヤマノケ、コトリバコ、リョウメンスクナ、くねくね、かんひもなど背後に日本の民間伝承を匂わせるものが多くあります。

八尺様。

ヤマノケ。

【閲覧注意】コトリバコ【都市伝説】霊感の強い友達の話。 - NAVER まとめ
かんひも
くねくね - Wikipedia
リョウメンスクナ

これらは人間の魂が死後も残っていて、生前の人格を引きずって化けて出るような「幽霊」とは性格が異なり、「妖怪」に近いものです。

一方で、柳田國男が蒐集したような古い「妖怪」にはなかった現代的な特徴も見られます。

基本的には、これらの妖怪は最近になって創作されたものだろうと思います。

八尺様、コトリバコ、くねくね、かんひもなどは古い文献には記録が見当たりません。

両面宿儺(リョウメンスクナ)は古くから記録がある妖怪ですし(妖怪というより神さまに近いかもしれません。両面宿儺 - Wikipedia)、ヤマノケの「足が一本」という特徴は、一本だたら(一本だたら - Wikipedia)等の山の妖怪の影響を感じさせるものですが、エピソードは現代的です。

本エントリーでは、これらの土着信仰、民話、伝承風の都市伝説がどのような歴史的背景を持って生まれてきたかを考えます。

土着信仰、民話、伝承風の都市伝説の特徴

上で紹介したような怪談には、共通してみられる特徴があります。

  1. 主人公は対象の恐ろしさを知らずに接触する。
  2. 対象の恐ろしさを認識できる人、霊感がある人のあわてようが怖さを煽る。
  3. 僧侶、神主、拝み屋的な除霊やお祓いの技能を持った人が登場する。

これは古くからあるオーソドックスな怪談話の手法のように見え、実は現代的なものです。

異界としての田舎

まず一点目「主人公は対象の恐ろしさを知らずに接触する」に注目します。

結論を先に言ってしまうと、伝承風の都市伝説が成立するのは、多くの人にとって「田舎」が日常の生活空間から離れたものになったからです。

「田舎の納屋から変なモノが出てきた」「おじいちゃんおばあちゃんの家に泊まりにいったとき変なモノに出会った」という話は、田舎という異界と普段の生活空間が接したということです。

宮田登は著書、『妖怪の民俗学』において、妖怪が出現する場所は「境界」であることを指摘しました。

妖怪の民俗学 (ちくま学芸文庫)

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(第3章「妖怪のトポロジー」を参照。)

「境界」は辻(交差点)や橋、ある地点と別のある地点の接点です。

かつて日本には「辻占」という習慣がありました。
辻占 - Wikipedia

辻は「こちら側」と「あちら側」の接点であり、「あちら側」からくる人はそれだけで神秘的だったのです。

この境界概念は非常に便利で、多くのお化けの出現がこれで説明できてしまいます。

かつての幽霊が柳の下に出たのは、柳が橋のたもとに植えられていたからであり、橋は端であり「こちら側」と「あちら側」の接点だからです。

たぬきが化けたのはたぬきが里というこちら側と、山というあちら側の境界を行き来する動物だからです。

この境界に対する感覚は現代でも生きており、正丸峠が心霊スポットとして有名なのは峠が山道を登りつめてそこから下りになる境目だからです。

心霊スポット 埼玉県 正丸峠

横断歩道で幽霊に足を掴まれた、という怪談もあります。横断歩道は境界です。

山のこちら側と向こう側をつなぐ境界である、トンネルもよく心霊スポットになります。

【行ってはいけない!!】全国の心霊トンネルの恐怖度を格付け【何が起こっても知らない!!】 - NAVER まとめ

ただし「境界」という概念は厳密な定義が難しく、恣意的に用いられる可能性があります。

つまり「ここは境界とは呼べない」という場所をはっきりとは説明できないので、お化けが出た場所を後づけで「境界」と呼んでいるにすぎず、説明になっていないかもしれないということです。

ぼくは民俗学者ではないので、異界とか境界とかいう言葉をわりといい加減に使っていますが、小松和彦らはその点に慎重です。

異人論―民俗社会の心性 (ちくま学芸文庫)

異人論―民俗社会の心性 (ちくま学芸文庫)

しかし、「田舎」が日常の生活空間から離れたものになったことが、伝承風の都市伝説に説得力、雰囲気を与えていることは否定できないと思います。

今日的「霊感」の起原

二点目、「対象の恐ろしさを認識できる人、霊感がある人のあわてようが怖さを煽る」についてです。

今日、「霊」的なものが「見える」人のことを「霊感がある」と表現することは一般的ですが、霊が見えることが「能力」として認識されるようになったのは、比較的最近のことです。

桃山人夜話(絵本百物語)には「気味が悪いと思えば、傘の骨も、わらじも怪異に見える」というようなことが書かれています。
(江戸時代とは言え古い文章で、読みにくく書き写しにくいので、あえて大雑把に引用しています。ご了承ください。)

これは「お化けなんてないさ」というような唯物的な見方に見えますが、その後の文には「きつねやたぬきは人の油断を狙ってとりつくのである」というようなことが述べられます。

つまり、桃山人は「気持ちをしっかり持っていれば怪異に出会うことなどない」と主張しているのです。

絵本百物語 - Wikipedia

桃山人夜話―絵本百物語 (角川ソフィア文庫)

桃山人夜話―絵本百物語 (角川ソフィア文庫)

古くは、霊が見えるのは化かされていたり祟られていたりする人で、霊が見えることは「能力」ではなかったのです。

霊が見えることが「霊感」という能力に変わったのはいつか。

原田実は、写真機の誕生、心霊写真の登場に遡ると指摘しています。

原田実の日本霊能史講座―と学会レポート

原田実の日本霊能史講座―と学会レポート

写真という特殊な技術によって霊が浮かび上がる心霊写真の延長線上に、普通の人には肉眼でみえない霊を目視できる特殊な技能、霊感が誕生した、ということです。

さて、ここで最初に列挙した伝承風都市伝説を振り返ってください。霊感や技能を持っている人が、知識、技能ゆえに対象の恐ろしさを察知して、慌てています。

このストーリーは実は、今日的「霊感」概念の浸透以降でないと生まれてこないものです。

神道、仏教へのイメージ

さて、三点目「僧侶、神主、拝み屋的な除霊やお祓いの技能を持った人が登場する」ことが、なぜ現代的といえるのかについて説明します。

注意すべき点は伝承風の都市伝説が「怖い話」だということです。

平安時代初期の『日本霊異記』は、仏様を大事にしないとバチが当たるという説話だったりします。
日本現報善悪霊異記 - Wikipedia

江戸時代の『死霊解脱物語聞書』は僧侶が霊を成仏させます。
累ヶ淵 - Wikipedia

日本の妖怪 (図解雑学)

日本の妖怪 (図解雑学)

耳なし芳一はお経を書き忘れたために耳を持っていかれますが、ここでは「お経」のパワーは絶対的なものになっています。

伝承風の都市伝説は、お祓いや除霊が完全に成功したとは言い切れないあいまいさを残し余韻を持たせることで「怖い話」として成立しています。

お化けが退治されましたメデタシメデタシ、という形式にはなっていません。かつ不完全な除霊やお祓いになってしまった理由が明らかになるという形式にもなっていません。

これは宗教者への期待が、あらかじめ失われていることを示しています。しかし、徹底した無宗教というわけではなく、除霊やお祓いの技能を持った人がいる、ということは前提になっています。

このような状況は戦後に生まれたものです。

かつて、国家と宗教は密接にむすびついていました。

近代国家の成立は絶対王政からスタートしました。絶対王政の背景には、王権神授説がありました。
王様は神から選ばれた存在でした。

その後王権神授説は次第に否定され、社会契約説が生まれます。ホッブズは国家という歯止めがなければ、万人の万人に対する戦いが生まれるであろう、だから軍隊や警察などの暴力機関は国家に預けおくのだ、と主張しました。

社会契約説は現在の民主主義の基盤になるものでしょう。

しかし、「万人の万人に対する戦い」は近代国家の成立によってなくなりましたが、国家と国家の戦いはなくなりません。

近代国家は戦争によって大量の死者を出しました。そして、国家の責任によって生じた死者をどう「慰霊」するかという問題が生じます。
絶対王政の時代であれば、戦争は神の代理人である王様によって行われ、慰霊はキリスト教の神に仕える宗教者が行います。
しかし、民主主義によって信仰の自由が保証されることによって、「慰霊」は徹底的に個人依存のものになりました。

靖国参拝はいまでも定期的に話題になりますが、民主主義国家というものは国家の責任によって生じた死者の慰霊をどうするか、という問題を常にはらんでいるものなのです。

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

こうして特定の絶対的な宗教がなくなり、慰霊が個人依存のものになったことにより、慰霊をする人=宗教者の能力も個人依存のものとなったのです。

「除霊や祓いは失敗することもあれば、成功することもある。人間だもの」という感覚が浸透したのは、慰霊が徹底的に個人依存のものとなった戦後ならではの現象なのです。

まとめ

以上、ネット上で人気のある土着信仰、民話、伝承風の都市伝説が、伝承風でありながら、同時に現代的でもあることを指摘しました。

怖い話を「怖いねー」で終わらせるのも良いと思いますが、怖い話を「妖怪」として考察してみるのもまた一興ではないでしょうか。

妖怪は新しい妖怪であれ、古い妖怪であれ自然の歴史と人間の歴史が複雑に絡みあった解けない知恵の輪です。

妖怪を解きほぐす営みはきっと、あなたの人生をより豊かにしてくれるでしょう。いや、うそだな。しないな。妖怪について考えだすと、なんの役にもたたない本を買い込むことになり、狭い部屋が余計に狭くなり、時間とお金を浪費する。

でもこんな文章を最後まで読んでる時点で、お前も妖怪に取り憑かれはじめてるんだよ。これは呪だ。