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廿TT

譬如水怙牛過窓櫺 頭角四蹄都過了 因甚麼尾巴過不得

妖怪弱者のための水木しげる「妖怪」元ネタ入門

妖怪 漫画

妖怪リテラシーの格差問題

 このエントリを書こうと思ったきっかけはこれだ。
水木しげる絵の元ネタ - Togetterまとめ

 このまとめ自体は大変すばらしいもので、私は感謝とともに感動すら覚えた。
 問題はこれにつけられたコメントだ。

はてなブックマーク - 水木しげる絵の元ネタ - Togetter

 ☆が比較的多くつけられたコメントにこんなのがある。

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 おわかりいただけただろうか。
 水木しげるの妖怪絵に元ネタがあることを、多くの人たちは「パクり」と認識しているのだ。
 これはつまり「妖怪」というものがなんなのか、まったくわかってないということを示している。

 これはまずい。いや、思えば以前からこの「妖怪リテラシーの格差」ともいうべき問題を薄々感じてはいた。

 例えば京極夏彦のこんな発言。

“世間はそう思ってなかったけどね。「妖怪って全部水木しげるが作ったんじゃねえか?」ですよ。”
――京極夏彦、村上健司、多田克己『妖怪馬鹿―化け物を語り尽せり京の夜』(新潮OH!文庫)p.253

妖怪馬鹿―化け物を語り尽せり京の夜 (新潮OH!文庫)

妖怪馬鹿―化け物を語り尽せり京の夜 (新潮OH!文庫)

↑ぼくが持っているのはこっちだが、

完全復刻・妖怪馬鹿 (新潮文庫)

完全復刻・妖怪馬鹿 (新潮文庫)

↑復刻版が出ている。

 これを読んだときは、ふーんそんなもんか、と思っただけだった。

 あるとき、漫画好きの兄から「最近狩野派の鳥山なんとかっていう人の絵を見たんだけど、水木しげるの妖怪ってあれと構図まで一緒だったりすんのな」と言われたことがあった。

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

 そのときは、いやそりゃそうだろ、と思っただけだった。

 しかしこれらのはてブコメを見て、ようやく気がついた。
 ほとんどの日本人は、妖怪のことをなにもわかってない。
 この現実に警鐘を鳴らさねばならない。

 最近巷ではメディアリテラシーが大事だとか言われているようだが、へそが茶を沸かす。
 芸術? 科学? 経済? 政治? そんなものよりもっと大切なことがあるだろう。
 そう、言うまでもない。妖怪だ。

妖怪とはなにか?

 妖怪とはなにか? この問いに答えることは困難である。
 妖怪の定義はできない。
 しかし、典型的に妖怪であるものと典型的に妖怪でないものの区別はできるのだ。

 これが論理的な矛盾と感じる方は、ご一考頂きたい。

 生物学の教授でも、「生命とはなにか?」という問いに答えることは困難だろう。
 しかし、典型的に生物であるイヌやネコやメタセコイアについて研究することはできるのだ。
 生命とはなにかを明らかにすることができたら、生物学は完成してしまう。

 まず厳密に定義を固めてからでないと話を進めることができない、と考えてしまうと一歩も前に進めない。

 妖怪とはなにか。それを明らかにすることは最終目標であって、出発点ではないのだ。

論理学をつくる

論理学をつくる


 さて、「河童」、「雪女」、「ろくろ首」などは典型的に妖怪である。
 このことには同意して頂けるだろう。
 これらはなにか、昔から伝わってきているもののように感じられる。
 同様に「子なき爺」、「砂かけ婆」、「ぬりかべ」、「一反もめん」などは典型的に妖怪である。

 「ピカチュウ」、「ゴジラ」、「ドラえもん」などは典型的に妖怪でない。
 これにも同意して頂けるだろう。
 これらは作者がいて、キャラクターもそのデザインも、任天堂円谷プロ藤子不二雄がつくったものだ。
同様に「鬼太郎」、「目玉おやじ」、「ねずみ男」などは典型的な妖怪とはいえない。
これらは、漫画「鬼太郎」の作品内では妖怪だが*1、明らかに作者水木しげるがつくったものだ。

 ここで、水木しげる『カラー版 妖怪画談』(岩波新書)を見てみる。

 ソデのところに書かれた解説文にはこうある。

鬼太郎をはじめとする妖怪の有名人、幽霊・付喪神(つくもがみ)などが、精緻なタッチと豊かな色彩の中に生き生きと動き出す。

 鬼太郎を妖怪の代表格として位置づけている。

 一方、同書 p.152「鬼太郎」の項の解説文にはこうある。

この本に出てくる妖怪たちはすべて本当にいるのではないか(目には見えないが……)という連中ばかりなので、ぼくは妖怪の中には入れたくなかった。

 この対立はなんだろうか。

水木しげる「水木サンは、そりゃあこの本に鬼太郎入れたくないですよ。鬼太郎は作り話ですからネ」
編集者「いやいや水木先生、そうは言ってもやっぱ鬼太郎入ってないと売れませんって。読者はそんなこと気にしませんから、とにかく鬼太郎入れてください。鬼太郎入れときゃ売れますから」
水木しげる「ハァ、そうですかあ」

などというやりとりが人知れずあったのだろうか。
 いや、あの岩波書店の編集者が、そんながっついた商売っ気を出すなど考えにくい。

 この対立は、天下の岩波書店の編集者をしても、「妖怪」のなかに含まれるものとそうでないものの区別がついていなかった、と見るべきだ。

水木しげるの妖怪ポリシー

水木しげるの妖怪絵に対するポリシーは本人が明言している。

妖怪なんでも入門 (小学館入門百科シリーズ 32)

妖怪なんでも入門 (小学館入門百科シリーズ 32)

↑読んでません。

 京極夏彦は『妖怪の理 妖怪の檻』において、『妖怪なんでも入門(小学館入門百科シリーズ 32)』(1974年版)を引用し、こう述べる(pp.322-324)。

文庫版  妖怪の理 妖怪の檻 (角川文庫)

文庫版 妖怪の理 妖怪の檻 (角川文庫)

 孫引きになってしまうが、ご容赦願いたい。

水木は鳥山石燕を(適当な肖像画を付して)取り上げます。
『彼は、じゅうらいあったものに、自分の創作をくわえ、民衆に伝えられていたものを絵にし、うすい本ではあるが、十二冊ほどの妖怪の本を残した。』
(中略)
続いて水木は柳田國男の『妖怪談義』を取り上げ、「これは、妖怪が生きている。しかし、残念ながら型はない」とした後、次のように述べます。
『私は、昔の絵などを参考にしたり、創作したりして、「妖怪談義」のなかのものを絵にした。
 「鬼太郎」のなかで、妖怪を創作したのも三十ばかりあるが、妖怪は、ほんらい、怪獣なんかのように創作されるべきではないと思う。
 妖怪は、昔の人の残した遺産だから、その型を尊重し、後世に伝えるのがよい。』

なにも付け足す必要はないだろう。
 「型」がある妖怪についてはその「型」をそのまま使う。
 なければ、昔の絵などを参考にしてつくる。
 つくる際は「妖怪が生きている」ようにつくる。

 「生きてるか」というのは、この感覚だ。

(妖怪は幽霊などと違い)人間の存在に関係なく、昔からそこにいたのだという感じがある。

 「フハッ」という説得力のある「昔からそこにいたのだ」という感じ、それこそが妖怪の本質である。

水木しげるの妖怪元ネタ文献

 基本中の基本として、抑えておくべき水木しげるの妖怪元ネタ文献はこれだ。
 水木しげる自身が(ねずみ男の発言という体で)、『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪たちの出典を明言している。

 水木しげる『カラー版 続 妖怪画談』(岩波新書)pp.234-235 より引用する。

 味方の妖怪というのは、柳田国男(やなぎたくにお)の「妖怪談義」に出てくる妖怪たちで、これは親友である。
 敵というのは、江戸時代の鳥山石燕百鬼夜行(ひゃっきやこう)に出てくる妖怪たちで、中国渡来の者が多い。

妖怪談義 (講談社学術文庫)

妖怪談義 (講談社学術文庫)

 『妖怪談義』はコナキジジ、スナカケババなどの妖怪が収集されている。

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

 『百鬼夜行』はぬらりひょんなどの妖怪が描かれている。

 「中国渡来の者が多い。」という一文については、山海経を参照するとわかりやすい。

山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー)

山海経―中国古代の神話世界 (平凡社ライブラリー)

 石燕が『百鬼夜行』シリーズで描いた燭陰は、直接山海経を参照している。
平凡社山海経の解説は水木しげるが書いており、「この化け物みたいのは実はラクダ、これはペリカン」といった具合に近代的な感覚で絵解きをしている。「水木先生は妖怪だから、人間の常識でしばることは意味がない」というような意見も散見されるが、水木は人間としての価値観で測っても、かなり聡明で勉強家なのである。)

桃山人夜話―絵本百物語 (角川ソフィア文庫)

桃山人夜話―絵本百物語 (角川ソフィア文庫)

 また鬼太郎シリーズに登場する小豆あらい、牛鬼などの造形は『桃山人夜話』を参照したものと思われる。

 他にも、古い絵巻物、浮世絵、江戸時代のかるたなどから、果ては佐藤有文、中岡俊哉らの明らかに戦後昭和に創作されたであろう妖怪まで、水木が参照した文献は枚挙にいとまがないが、最低限の教養として画図百鬼夜行、桃山人夜話(絵本百物語)、山海経、妖怪談義の4つは抑えておくべきであろう。

 ここで、水木は妖怪談義の妖怪、つまり自分がデザインした妖怪を鬼太郎の味方にして、先人が伝えてきた妖怪を敵にしていることに注意すべきだ。
 これは、なにやら傲慢な態度に思われかねないが、実は違う。

 現代日本人にとって日本の文化は、明治を期に一度途切れている

 「妖怪談義」は「民俗学」という明治以降の「学問」の枠組みからうまれた「妖怪」概念であり、石燕らが描いたのは江戸期の読本、黄表紙系譜にあるものだ。

 水木はこれをマンガ鬼太郎の舞台に乗せることで、これらを直接対峙させ、平安時代の鬼、もののけから江戸時代のお化け、民間伝承、都市伝説までを一貫した枠組み「妖怪」という概念に再統合させたのである。

妖怪のジレンマ

 さて、このエントリのきっかけはこれだった。
水木しげる絵の元ネタ - Togetterまとめ

 幽霊の正体見たり枯れ尾花――化け物はなにかが「化けた」モノであり、その正体を明らかにされた時点でパワーを失うのだ。

 化け草履の話をご存知だろうか。

化け草履 - Wikipedia

 ある屋敷に夜間に「カラリン、コロリン、カンコロリン、まなぐ三つに歯二ん枚」と歌いながら、徘徊する得体のしれない化け物がでる。
 その屋敷の主人だか若旦那だかは、そのせいで気味悪く夜も眠れない日々を過ごす。
 ある晩、その主人だか若旦那だかは、意を決してその化け物の後をつける。
 するとその化け物は履き物を放り込んでいた蔵に入っていく。
 ああこの化け物の正体は履き物だったか。
 それからは、履き物を粗末にするのはやめて、ものを大切にするようにしましたとさ、めでたしめでたし、という話だ。

 え? それ問題解決してんの? 履き物が化けてるの明らかに超常現象だろ、こえーよ、と思うかもしれない。
 しかし、この話はこれで完結なのだ。
 なぜなら、化け物はなにかが「化けた」モノであり、その正体を明らかにされた時点で化け物としてのパワーを失うからだ。

(ちなみにここで「カラリン、コロリン、カンコロリン、まなぐ三つに歯二ん枚」ってどう考えても草履じゃなくて下駄だよな、と思った人はするどい。この逸話は歴史の古い草履の化け物絵、「はきものを大事にしましょう」という教訓譚、さらにそれを図像化したりしたことなどが集合してこの形になっている。)

 ここであるジレンマが生じる。

 妖怪を調査し記録すること自体が、妖怪に影響を与える。そして記録された妖怪から、その妖怪の造形の元となるものが新たに探しだされる。

 この営みによって妖怪はその妖怪性を失ってしまうのではないか。

 それでは、もはや妖怪というのは調べたり考えたりするものではない、ということになってしまうのだろうか?
 その答えは半分Yes、半分Noだ。

 妖怪は複雑に絡み合い、調べても調べてもその正体には至らない。

 固くてなかなか噛み切れない上に味のないスルメを与えられて、噛めば噛むほど味が出るかと思ったらもともと味なんてなかった、みたいな世界である。

 禅宗ではしばしば公案というものが用いられる。いわゆる禅問答だ。妖怪はこれに近い。

 水木しげるを見てみよう。

 氏は「長年妖怪のことを考えて来たところ、自分の思考が半分くらい妖怪化してきていることに驚いている」と語っている。

 我々が目指すべきところは、ここにある。
 妖怪学という学問は成立し得ない。
 妖怪とは、道である。
 ――妖怪を仰ぎ、妖怪とともに歩み、妖怪となれ。

妖怪 カテゴリーの記事一覧 - 廿TT

鬼太郎夜話 (ちくま文庫 (み4-16))

鬼太郎夜話 (ちくま文庫 (み4-16))

*1:鬼太郎目玉おやじは幽霊族で、ねずみ男は半妖怪だったりするんだけど、それは置いといて