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譬如水怙牛過窓櫺 頭角四蹄都過了 因甚麼尾巴過不得

デデキントによる無限集合の存在証明のあやまり

概略

 小島寛之の『数学でつまずくのはなぜか』はおもしろい本だけど、ラストには(おそらく意図的な)ごまかしがある。

 小島はデデキントの無限集合の存在証明は「その後の数学者たちには黙殺されてしまった」と述べているが、そんなことはない。ふつうに反論されている。

デデキント無限とは

数について―連続性と数の本質 (岩波文庫 青 924)

数について―連続性と数の本質 (岩波文庫 青 924)

 デデキントは著書『数について』において「無限」を下記のように定義している。

集合 S は、もしそれ自身の真部分集合に相似ならば、「無限」であるといい、そうでない場合には S を「有限」集合であるという。
(pp.80-81)

 「相似」な集合という言葉は耳慣れないので、説明を加えよう。

一つの集合 S の写像 Φ は、もし集合 S の相異なる要素 a, b がいつでも相異なる像 a'=\phi (a), b' =\phi (b) に対応するならば, 「相似」写像という。
(p.69)

集合 R, S は、もし S の相似写像\phi (S)=R になるものが存在すれば、「相似」であると呼ばれる。
(p.71)

 例えば、偶数の集合は自然数の集合の真部分集合である。しかし、

 1、2、3、…
 2、4、6、…

という具合にいくらでも一対一対応(デデキントの言葉で言えば、相似写像)を作れる。

 無限の世界ではこういったパラドキシカルなことが起こる。

 本当はこの例えは逆で、デデキントは自分自身の真部分集合にこの「一対一対応を作れる」ことが無限集合の定義であるとして、ここから自然数とはなにか、導こうとした。

デデキントによる無限集合の存在証明

 さて問題になるのは、このような無限集合 S というのが存在するのか、ということである。
 さっきは自然数を例を出したけれど、自然数はまだ定義されてないのでつかっちゃだめだ。

 そこでデデキントはおもしろいことを述べる。

私の思考の世界、すなわち私の思考の対象となり得るあらゆる事物の全体 S は無限である。
(p.81)

 こんな風だ。
 s を集合 S の要素とする。写像 \phi (s) を「 s が私の思考の対象であり得ると考えること」とする。

 こうすると、

 花、犬、太陽、…
 花は私の思考の対象であり得る、犬は私の思考の対象であり得る、太陽は私の思考の対象であり得る、…

という具合にいくらでも一対一対応を作れる。

 これによって「私の思考の世界、すなわち私の思考の対象となり得るあらゆる事物の全体 S は無限である」ことが示された。

 さて、小島寛之は『数学でつまずくのはなぜか』このデデキントの議論を引いて、

のけぞった読者も多かろう。確かに、これが数学の証明であるかどうかは大問題だ(実際、その後の数学者たちには黙殺されてしまった)。
(p.226)

と述べる。

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

 でも、本当は別に黙殺されてない。ふつうに反駁されている。

 「私の思考の対象となり得るあらゆる事物の全体 S」という集合は、あらゆる集合の集まりを含む。

 あらゆる集合の集まりは、「クラス」と呼ばれ、これは集合とは考えない。

 なので、デデキントの議論は今日では証明として認められない。

ラッセルのパラドックス

 なぜ「あらゆる集合の集まり」は、「クラス」と呼ばれて集合と区別されるのか。

 それを理解するために「ラッセルのパラドックス」を紹介する。

  1. 自分自身を要素として含まない集合全体の集合 R(R=\{x \mid x\notin x\} )を考える。
  2. いま R は R の要素( R\in R )と仮定すると、R は「自分自身を要素として含まない」ので R は R を要素として含まない( R\notin R)。これは不合理。
  3. 一方、 R は R の要素でない( R \notin R)と仮定すると、R は自分自身を要素として含まないので、R は R の要素である( R\in R)ことになる。やはり不合理。

 
 R は R の要素だとしても、R は R の要素でないとしても矛盾が生じる。
 このパラドックスは 「自分自身を要素として含まない集合全体」が「集合」だと考えてしまったから起きる。

 R は集合ではない、と考えればいい。

 あらゆる集合の集まりは集合と呼ぶには大きすぎる

 すべての集合の集合をつくると矛盾が生じることは、カントールが1899年にデデキントへ当てた書簡で報告されている。

 現代ならば、集合論の矛盾を見つけたら大発見として発表するだろうけれど、当時はそういう習慣がなかった。

 カントールの議論をさらに研究して、矛盾を導く最低限の性質だけを取り出したのがラッセルのパラドックスだ。

古典を読む意義

 ぼくはよくある「古典を読め」みたいな呼びかけはたいてい無視していいと思っている。だって、読めないもん。

 学びたいことが科学的な事実なんだったら、受験向け参考書だろうと、ニュートン直筆の書簡だろうと、科学的な事実であることには変わりないんだから、現代人向けに読みやすく書かれた本を読めばいい。

 古典を読む意義っていうのは、あえて失敗にコミットするところにあるんじゃないかなって思っている。

 デデキントの議論は今日では証明として認められないけど、そういう「現代では価値を失ったもの」それに触れることができる。それが「古典」なんじゃないだろうか。

 ところで集合の考えかたっていうのは、数学を便利な道具として使うために必要な、基本文法みたいなものなんだけど、集合「論」になっちゃうととたんに超難解になる。

 竹内外史『集合とはなにか―はじめて学ぶ人のために』は名著とされていて、たしかに名著なんだけど「はじめて学ぶ人」がこれ読んだら絶対挫折する。

 もっと語学の参考書みたいな感じで書かれた集合の本があればいいんだけど……。

新装版 集合とはなにか―はじめて学ぶ人のために (ブルーバックス)

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