読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

廿TT

譬如水怙牛過窓櫺 頭角四蹄都過了 因甚麼尾巴過不得

学生生活における勉強:これから大学生になる人へむけて贈る言葉

おそらく、あなたは大学に入ったらまったく講義についていけなくなるでしょう。

 入学して、さてまじめに勉強してみようかと授業へ出席しはじめるやいなや、きみはたちまちいくつかのおかしさとわけのわからなさとに直面するはずだ。
 一般教育科目とか総合科目とかにしろ、専門科目にしろ、先生が自分の専門分野の研究を、学生の反応などかまうことなく一方的にしゃべりまくる講義にきみは面喰らうだろう。
(中略)
 学者は所詮、学者でしかない。すぐれた学者がすぐれた教師である保証はまったくないのだ。


――浅羽 通明『大学で何を学ぶか』(幻冬舎文庫)pp.29-60

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

どんなに注意深く入学者を選んでも,どんなに辛抱強く分析をしても学生がここに入ってくると何かが起こる.「彼らのほぼ半数は平均より下ということがいつも起こるんです!」
 もちろん諸君は,この話を聞いて笑うでしょう.理性的に考えれば当たり前の話だからです


――著者:リチャード・P. ファインマン、ラルフ・レイトン、マイケル・ゴットリーブ 訳者:戸田 盛和、川島 協 『ファインマン流物理がわかるコツ』(岩波書店)p.4 

ファインマン流物理がわかるコツ

ファインマン流物理がわかるコツ

それでも、勉強を続けて欲しいとぼくは思っています。

 かつて文学部と理学部が大学のイメージの中核だった時代があるという。大学に入ろうとする者は、あるいは哲学的思索にふけり、あるいは自然の謎を解き明かすというロマンティックな夢を心のどこかに秘めていたのだと、伝説は語る。現在の大学のイメージは、しかし、この上なく散文的なものにすぎない。その中核にある法学部と医学部は、学問研究の場というよりも官僚や医師になるためのステップとして、高く評価されているのだ。
 このふたつのイメージは検討してみるに値する。そんなことをして何になるのだとあなたは言うかもしれない。それには、大学というのはこういうことをする所なのだと答えておこう。
(中略)
最後に、あなたは二者択一の前に立たされる。両者のうちどちらを択び取るのか。知のための知と手段としての知、そのいずれをよしとするのか。
 数年前のぼくのようにうろたえたくなかったら、こうした場合の作法は心得ておいた方がよい。二値論理に合わせて答を出すのは共通一次試験で卒業ということにしよう。二者択一の問題には決してまともに答えないこと。できれば問題そのものをズラせてしまうこと。
(中略)
ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルを振り回すようになってすでに久しいが、(中略)ぼくはこうした時代の感性を信じている。
(中略)
そもそもあなたは目的そのものにシラケているはずだ。かといって、知を目的として偶像化するほど熱くなることもない。そこで、あなたは「どうせ何にもならないだろうけれど」と言いつつ知と戯れることができる。そして、逆説的にも、そのことこそが知との真に深いかかわりあいを可能にする条件なのだ。


――浅田 彰『構造と力 記号論を超えて』(勁草書房

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

こうやって勉強してみてください。

大学というところには、受験にかかわることを、さげすむ風潮がある。そのくせ、当の受験体制の加害者なのだから、世話はない。直接に入試にタッチしたことがなくても、そんなことは免罪符にならない。


――森 毅『数学受験術指南』(中公新書)p.1

数学受験術指南 (中公新書 (607))

数学受験術指南 (中公新書 (607))

結局のところ、大学でも計算問題や暗記カードを通じて、基礎的な技能(計算や微積)を反射的にできるようにしろ、一方で計算バカにならずに実際の物理世界の観察を重視しよう
(中略)
大学に入ったら、受験勉強みたいなのは終わりだ、と思ったぼくがまちがっていたのか。結局、勉強に受験とそれ以外があると思う発想がダメだったのね……


――山形 浩生『あらゆる勉強に通じるコツ』

http://cruel.org/esquire/esquire2007.html

ファインマン流物理がわかるコツ

ファインマン流物理がわかるコツ

勉強すればするほど、ものごとはシンプルになります。

数学の進歩とは、もともとは非常な労力をかけて得られた結果を、より一般的な理論の自明な系としてしまうことなのです。


――著者: グレゴリー・J・チャイティン 訳者:黒川 利明『セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで』(岩波書店)p.202

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

 たとえば、微分積分をやっているときは、マイナスの数の対数は存在しないことを、やかましく言われるし、そのことを種にした入試問題などがたくさん作られている。ところが複素関数論をやると、マイナスの数の対数だって平気の平左である。そのことを知ったときの喜びはなんとも言えない。
(中略)
そこには自分の視界が拡大された喜びがある。


――遠山 啓『文化としての数学』(光文社文庫)p.119

文化としての数学 (光文社文庫)

文化としての数学 (光文社文庫)

 哲学とか倫理学とか精神分析とか社会理論とか思想史とか文化人類学、宗教学に民族学、あるいは文学史や文芸批評などなどの人文系の学問、あるいは政治理論や経済学史、法社会学など、社会科学系のなかの実務的でない学問は、いったいなんの役に立つのだろうか?
 学者たちがどう考えているのかはしらない。
 しかし、オレだったら、テレビが供給してくれる常識を信じずに生きるにあたって、世の中のあらましを把握したり、人間の見方を覚えたり、歴史を意義づけたり、いろいろ自覚的にものを考えるにあたって、考え方のモデルがたくさん詰まっているカタログとして活用できると答える。


――浅羽 通明『大学で何を学ぶか』(幻冬舎文庫)p.218

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

あなたの進む道がどこであれ、そこに光がありますように。

研究をしているほとんどの時間は実際不愉快なものです。苦労してやっているのに何もかもがおかしくて、何もうまくいかず、アイデアがお互いに衝突し、どうにもならない、人生を無駄にしているのじゃないかと感じるものです。そして、突然、光が見えるのです。問題を考える正しい方向が分かります。何もかもがあるべきところに落ち着くのです。


――著者: グレゴリー・J・チャイティン 訳者:黒川 利明『セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで』(岩波書店)pp.26-27

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで